
『潮満たば いかにせむとか
海神の 神が手渡る
海人娘子ども(1216)』
潮の干満によって、砂州でつながったり、離れたりするいくつかの島々、
それらの総称が玉津島だったのかもしれません。
この時の聖武帝の行幸は、十月中旬の大潮の日に合わせて、
日程が組まれた可能性があります。
十六日に「山に登り海を望むに、ここ最もよし。
遠行を労らずして、遊覧するに足れり。故に弱浜を改めて、
明光浦とす。」という詔があったことが「続日本紀」に記録されています。
いずれにしても、干潟を官人たちが嬉々として
歩いる光景は、とても優雅だったに違いありません。