金村・赤人は、人麻呂から、30年くらい後に活躍した歌人なんだが、いうまでもなく、かれらは万葉後期の歌人ではない。また、かりに、律令制が確立してこの時代の社会が大きな変革を遂げようと、仏教思想が人々の価値観を一変させようと、歌が歌である限り、その呪的な性格は時代とともに希薄になってはいくが、消滅してしまうためにはかなりの長い年月を要したのではないかと思うんだ。
金村歌に話をもどそう。「なきすみの」については、その解釈がいろいろある中で、名寸隅(なきすみ)は魚隅(住)の誤写であるとする説が有力のようだ。詳しいことはまたの機会にするが、おじさんは枕詞の可能性も全く捨てきれないと思ってるんだ。
最後に、「しきる白波」について少しだけ話しておこう。記紀万葉において、「白」は、「神の」ということばと同意と考えてもよいほどの意味をもっているんだ。たとえば、「白雪」は、天が与えたもうたもので、白雪が降ることは、めでたいこととされていた。なぜなら、その年の豊作が約束されたからなんだ。また、次から次へと打ち寄せる波は、常世(とこよ。当時の人が、はるか海のむこうにあると考えていた理想郷)から恵みをもたらしてくれるありがたいものだと考えていた。実際、大波の後、海岸にはたくさんの寄りもの(材木や海草などの漂流物)がうちあげられていたし、魚の大群がやってくることもままあったのだよ。「白雪」や「白波」を迷惑だと思うのは、旅人の発想なんじゃないだろうか。瑞祥というむつかしいことばもあるが、まあここでは、おめでたいことば・縁起のよいことばぐらいに考えておこう。
大和への帰路に立ちふさがるように横たわっている淡路島。その北端の聖地、松帆の浦まではここからおよそ10キロメートルくらいもあるのだろうか。金村の目は、当然松帆の浦を見ていたが、同時に大和にいる家族も見ていたにちがいない。金村が「名寸隅の、」と歌いはじめたとき、少しざわついていた一同は、思わず居ずまいを正したことだろう。そして、第一反歌のあたりでは、海人娘子のイメージに自分の家族の面影を重ね合わせて、水を打ったように静かに聞き入っていたはずだ。
続日本紀によると、聖武帝一行は神亀3年10月7日に平城京を出発。印南野の邑美(おうみ)の頓宮(かりみや)に約1週間ほど滞在したのち10月19日に難波に帰り、京へ帰り着いたのは、29日だったらしい。
歌が、長歌から短歌へ、集団のものから個人のものへと、ほんの少し動きはじめたころの歌だね。後に、この金村歌を本歌(もとうた)にして藤原定家が
来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
と詠ったことはあまりにも有名だよ。
山陽電鉄東二見駅の南東およそ1キロメートルのところに、牡丹寺として有名な薬師院がある。この寺に隣接して、聖武帝印南野行幸の際の頓宮跡と伝えられている天王神社があるが、しかとしたことはわからない。
この歌の歌われた舞台としては、さらに800メートル南東の住吉神社のほうが、見晴らしがきいてうってつけの場所だと思うんだがどうだろうか。