笠金村
名寸隅(なきすみ)の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦の 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに
藻塩焼きつつ 海人娘子(あまをとめ) ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ ますらをの
心はなしに たわやめの 思ひたわみて たもとほり 我はそ恋ふる 舟梶をなみ (巻6 935)
反歌二首
玉藻刈る 海人娘子ども 見に行かむ 舟梶もがも 波高くとも (巻6 936)
行き巡り 見とも飽かめや 名寸隅の 船瀬の浜に しきる白波 (巻6 937)

《名寸隅の船瀬から見える淡路島の松帆の浦に、朝なぎに玉藻を刈り、夕なぎに藻塩を焼く
海人おとめがいるとは聞くが、見に行くすべがないので、たくましい男の心もなく、かよわ
い女のように思いしおれて、さまよいながら私は恋い慕っている。舟も梶もないので。 》
《玉藻刈る海人おとめたちを見に行く舟や梶があればよいのに、たとえ波は高くとも。》
《歩きまわって、いくら見ても飽くことがあろうか、この名寸隅の船瀬の浜にしきりに打ち寄せる白波は。》
その一
淡路島、垂水より、1988    「この歌から、白鳳の宮廷歌人、柿本人麻呂に見られたような、 官人としての情熱も気概も窺えないのは事実である。だからといって、 このまま黙殺してしまってはなるまい。」とか、「そこで金村は宮廷歌人として、 人々の享楽的感情を満足させるためにこのような私情に傾く歌を制作し、 提供したのだろう。」とか解説されていることでもわかるように、 行幸従駕歌としての、この歌の評価が一般にきわめて低いのは、残念というほかない。
   笠金村については、知らない人もいるかもしれないが、かれは、山部赤人とともに、 天皇の行幸に従駕した宮廷歌人なんだ。かれの献じた歌が、 赤人の歌より前に置かれていることから、赤人より上位の歌人ではなかったかと思う。 元正天皇の養老7年(723)、吉野行幸における従駕歌は、巻6の巻頭歌に選ばれており、 この一点だけを取り上げても第一級の歌人であるといえるんだよ。 かりにこの金村歌を、宴席の場の余興歌だとしたら、この歌の次に 献じられた赤人歌(938)はどう考えればいいのか。人麻呂風で格調が高すぎて、 その場がしらけてしまうのではないだろうか。
   さて、前にも述べたが、古代においては「玉藻刈る」という行為は生活の糧を得る という意味もあるが、それよりも地霊に対して行われる敬意を表す神聖な行為であり、 旅人が目にする実景ではない。恐らく「塩を焼い」たり、 「若菜を摘ん」だりするのも、同様の行為だろうと思う。 そして、そういう尊敬すべき対象に対しては、まず「見る」ことによってコンタクトを持ち、 讃美することで自分をアピールしようとしたんだね。だれだって「見れど飽かぬ」とか 「また還り見む」とかいわれて誉められたらうれしいにきまっているよ。 「音に聞き、目に見る」という表現も誉めことばの一つのパターンだが、この金村歌は それをアレンジしたものなんだ。
  とにかく、古代の旅人たちは、山や岬や島など、行く先々で目にするあらゆるものには、 湊や船ですら、豊かな生命力があると考えていたらしい。そして、 それらとうまく交渉を持つことで、それらの生命力が自分に感染し、 自分の魂に活力を与えると信じていたふしがある。

  こういった魂振り(たまふり)の歌や、魂鎮め(たましずめ)の歌を呪歌とよぶが、 白川静氏は「(万葉の)前期の作者として確かなものとしては まず人麻呂をあげるべきであろうが、人麻呂は古歌謡の伝統に立って、 その呪的儀礼歌を宮廷文学として完成させた人であり、またその文学は、 その死とともに終わっている。(中略)その文学が、旅人、憶良、 家持らの後期の文学と甚だしく異質なものであることはいうまでもないが、 (以下略)」と述べている。  

TOP PAGE